2000年2月28日。
無謀にも名古屋・東京間を原付で駆け抜けた男がいた。
テントと地図を背中に積み、冬真っ只中の国道1号線を愛車YB−1が爆走する!
Last run 3月5・6日(土・日) 袋井〜豊橋 58.0km 豊橋〜名古屋 89.5km
翌朝、特に目覚ましをセットしたわけでもなく自然に目が覚めた。なんのことはない、寒すぎてこれ以上寝ていられなかっただけである。時計を見ると、6時20分となっていた。
もちろん、朝ごはんなんて気の利いたものがあるわけでなし。昨日に引き続きジュース一本買うことも出来ない所持金。凍えきった身体を温めるものは何もなく(お湯なら沸かせそうだったが、それもなんだかなぁ)、とにかく荷物をまとめて早いとここの素敵な住処から脱出したかった。
昨日は暗かったせいか、窮地に追い込まれていたせいか、それでもこの隙間はまだ狭いと考えるにも限度があった。でもこの朝に改めて外から隙間を見てみるとびっくりしたね。まさかこれほどまでに狭かったのか……人間寝ようと思えばどこでも寝られるもんだね。
荷物をバイクに積むと、夜の間になんとか乾いたカッパを羽織る。コートをなくしたのがかなり痛かった。寝てられないほど寒い中を、シャツとカッパで走り続けなければいけないのだ。気合を入れていざバイクにまたがる。幸い屋根付きの自転車置き場に置いたので、昨日の雨にも濡れずにすんでいた。キーを差し込み、スイッチを入れる。すると、メーター付近の見慣れないランプが点灯した。
「OIL」
オイル。オイル……オイル切れっ!?
なんと昨日は気づかなかったがどうやらオイルが無くなってきているらしい。ガソリンと違って、オイルは普通ほとんどなくならないものだが、なんというバッドタイミングだろう。もちろん、警告灯が点いただけなのでまだ走れないこともないが、オイルが完全に無くなってしまうとエンジンが焼けてしまうらしいので、あまりチャレンジはしたくなかった。
かといって、2サイクル用オイルなんてコンビ二で買えるもんでもなし。よしんば売っていたとしても60円じゃ買えない。どっちにしろ、銀行のキャッシュコーナーが開く時間まではなにもすることが出来なかった。しかし時刻はまだ7時前……じっとしていられるほど寒さに強くはないので、とりあえず浜松を目指してオイルを気にしつつ出発することにした。
意外に近い浜松には、30分ほどで着いてしまった。まだ7時20分。どうもキャッシュコーナーが開くのは9時らしい。しばらく浜松駅前をふらふらしているとなんと! こんな時間に空いている建物があるじゃないか。浜松フォルテというこの建物、朝の7時から一般開放しているらしい。中は多目的ホールになっているらしいが、入り口ロビーは普通に椅子とかでくつろげるようになっている。暖房も微妙だけど効いていて外よりは暖かい。快適。近くで何やら家族喧嘩してるおっさんたちが気になったが、さっそく仮眠を取らせていただいた。
目が覚めると、まだおっさんたちは喧嘩していた。そんなことはどうでもいいが、もうすぐ9時になろうとしている。シャッターが開くのを待って、一番乗りで現金を引き出した。これで所持金が百倍に膨れ上がったぞ。人間金が入ると心に余裕が出てくるもの。オイル残量が少ないのも気にせずに、カー用品店を探して浜松を発った。
しかし意外にお店が見当たらず、40分も探してようやくホームセンターが見つかったときには、警告灯が点灯してから22kmも走っていたことになる。ほんと、このバイクには酷な運転をさせてもらって申し訳ない……
ホームセンターが開くまでまたしばらく店の前で待たされたが、ようやくオイルもゲット! これで恐れるものは何もなくなった。途中「ドライブインあさひ」という食堂で前日からの餓えを癒す。そこから30分ほどで豊橋のバーン邸に着くことが出来た。その気になればあと三時間弱で家に帰れるほどの距離まで戻ってきたのである。
バーンが帰ってくるまでまだ時間があったので、隣にあるスーパー銭湯で思い切って入浴することにした。思えば富士の御殿場以来のお風呂である。昨夜の雨で冷え切った上に、シャツとカッパで走って凍えた身体を、三時間かけてじっくりと溶かした。風呂に三時間もいたのは生まれて初めてかもしれない。さらにロビーでバーンが帰ってくるまで仮眠を取らせてもらった。ようやく全身が癒された感じだった。
15時過ぎにバーンが帰ってくると、あとはもういつもと同じだった。夕方過ぎまでごろごろしながら話をしたり、夜になったら適当に飯を食って、帰りにスーパーで購入した酒を部屋で飲む。サカナはもちろん今朝まで体験してきた旅の話だ。 疲れがたまっているので、酒もそんなに飲めず、やがて眠りに落ちていく……
翌日は、昼過ぎになって、ついに最後の旅路についた。
ジャンバーを貸してもらったお陰で、カッパを着て名古屋に帰ることはなくなり、ほっとする。
あれほどトラブル続きだった旅なのに、意外なほど最後は順調に進んだ。
大きなリュックを二つも積んだ原付は、ふらふらとよろめきながら、
相変わらず時速50kmを維持して国道一号線をゆったりと走っていく。
鶴舞まで進んだとき、ふと気づいた。
写真はあれほどとったが、ひとつ大事なものを写していなかったのだ。
道に迷った末にようやくコレを見つけたときに、どんなに嬉しかったことか。
順調に進んでいるときにコレを見て、どんなに充実感が膨らんだことか。
地図に、道路の隅に、頭上の青看板に。
そして、物語のタイトルに。
そう、これはオレとYB−1が国道一号線を辿るお話。
そして、物語はまだ半分しか終わっていないのだ。
赤錆をまとい、色あせながらも、まっすぐ立ち続ける看板を写真に収め、再び走り出す。
19号線に乗り換えると、家まで着くのに時間はかからなかった。
それから約10ヶ月後。
自動二輪免許取得と車体自体の傷みにより、
YB−1は再び業者の手に引き取られていった。
走行距離22000km。
一年と10ヶ月で、
実に17000kmの道程を共に過ごしてきた愛車だ。
「コクイチ走破」という夢は叶わずに終わったが、
彼がくれたこの一週間の思い出を、いつまでもオレは語り続けるだろう。
そして、YBが果たせなかった夢を、いつか2代目BANDITが……?
RUN ON THE ROUTE 1 END
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