人生は一つの大きな旅であり、旅もまた小さな人生の一つだ
幾つもの国を見て、大勢の人々の生活を体験し
数多くの旅人と出会い、別れ、本当の友人に会い、本当の恋もした
深夜特急に憧れた男が遥か西を目指す
涙と笑いのアジア横断記!
プロローグ 2
〜海を越えて〜
16時頃にはすでにグロッキー状態になっていた。船内をうろつき回りたい誘惑はあったが、暴れてるのは胃の中身だけで十分だった。二段ベッドの上段に寝転び、一向に収まる気配の無い荒天を恨めしく思いながら一人呻いていると、突然船内放送が響いた。
「ケンジロウ様、ケンジロウ様。ロビーまでお越しください」
名指しで呼ばれると、人は何か不手際があったのではないかと怖れるもの。僕は「まさか強制送還でもされるのでは」などと飛躍した考えをよぎらせながら、重い身体を引きずってロビーに赴く。
ロビーは共同スペースで雑誌や自販機などが置いてあり、今も何人かの乗客が本を読んだり談笑したりしている。その中の白いテーブルに座ると、ぐったりとテーブルに身体を突っ伏した。しばらく待っていると、
「ケンジロウ様で御座いますね?」
と声を掛けられた。顔を上げると、責任者らしきスーツの男に加えてスタッフが幾人かずらりと並んでいる。僕は少なからずぎょっとして、ますます「マズいことになった」という感を強めた。
しかし、無表情だったスーツの男の口元がふっと緩み……
「ハッピバースデートゥーユー、ハッピバースデートゥユー!」
全員の合唱となった。
そう、この日は僕の誕生日だったので、スタッフがお祝いしてくれるというのだ。あまりの驚きに僕はしばし呆然としていると、女性のスタッフが誕生カードを渡してくれた。開いてみると、電子音で「Happy birthday」が流れる。中には日本語で「誕生日おめでとうございます」と書かれていた。
「お客様は本日お誕生日ということですので、バーラウンジでお好きなドリンクを一杯サービスさせていただきます」
船酔いではあったが、この心遣いはとても嬉しかった。僕は少し引きつりながらも笑顔で感謝を述べた。
折角のお祝いなので早速一杯、と思いたかったが、残念ながら身体の方がついてこない。僕はカードを大事に抱えながら、揺れに慣れるように早々とベッドに入ることにした。
翌朝、天気は相変わらずで揺れもあったが、一晩越えただけあって少し身体も慣れたようだ。食欲は無かったが昨夜はカップラーメンで過ごしたのでサービスで出る朝食を採ることにした。人気の少ない食堂は、中国風朝食が並んでいてバイキングスタイルだった。僕はその中から焼きそばと中華まん、それにわかめスープを取って席に着く。まだ体調が万全でないせいか、味も見てくれもまずまずだった。
食後に、昨日満足に見れなかった船内を歩いてみることにした。三階建てのつくりになっているらしく、僕が寝ている二等洋室は二階のBデッキに位置する。階下のCデッキにはロビーやカラオケバー、Aデッキには家族連れなどが入る特別室や貴賓室があった。売店もあり、国際船ということで免税品の酒やタバコもある他、日用品や食料なども売っている。
一通り船内を見たので、甲板に出てみることにした。分厚い扉のレバーを捻るが、なぜかドアは開かない。どうやら強風のため、その風圧で扉が抑えられているらしい。思い切り体重を掛けて押してみると、勢いよく扉は開いた。
外は相変わらずの曇天で、立っているのがふらつくほどの突風が吹いている。波は激しく船にぶつかり、その度に船体を大きく揺らしていた。霧雨なのか波しぶきなのかわからない水滴が舞い、全身を湿らす。辺りは目標物の何も無い360度の海原が続いていた。
ベンチなども備え付けてあるが、この風雨では座っているだけで体力を消耗しそうだ。それでも僕は舳先に行き、手すりに身体を預けながら、その遥か先にあるに違いない大陸の影を探して、しばらく目を凝らしていた。
夕方まで寝たり起きたりの繰り返しで時間を潰し、さすがに眠気も無くなったところでロビーに向かうと、声を掛けられた。中村さんは昨夜顔見知りになった人で、仕事で上海と日本を往復している。彼も船酔いのために、顔色があまりよろしくないようだった。
「もうこの船には何十回と乗ってるんだけどねぇ。こんなに揺れたのは初めてだよ」
そう言う彼に何となく申し訳なさを感じながら、中国という国や上海について色々聞いてみた。
「中国って国はとても楽しいところだよ。上海なんて、もう先進国も顔負けなくらいの大都市だ」
中村さんが語る中国の魅力に、僕は期待をどんどんと膨らませていった。
その後、昨夜頂いたバースデーカードでラウンジに行き、そこにいた中国人の社長さんたちと談笑しながら夜は更けていった。カラオケでは何故か乗務員やバーのマスター達が、代わる代わる中国語の歌を唄っていた。
翌朝、8時過ぎに目覚めて朝食を採っていると、中村さんが現れて僕の向かいに座った。ふと窓の外を指差す。
「ほら、上海が見えてきたぞ」
僕は食べるのも途中で席を立ち、窓に駆け寄った。まだモヤに紛れてうっすらとではあるが、確かに陸地が見える。あれが上海か……あの土地の向こうに、中国語を話し、中華料理を食べ、中国人として生活することを当然としている人たちが溢れているのだ。当たり前のことだが、それが不思議に思えた。
「上海で泊まるところは決めてあるのかい?」
中村さんが尋ねた。上海には名古屋のボーイスカウトで知り合った人が仕事で住んでおり、そこに泊めてもらう連絡はすでにつけてある。そのことを告げると、彼はそれは良かったね、と言って続けた。
「もし何かあったら、僕はここに泊まってるから」
差し出した名刺には「船長賓館(Captain Hostel)」と書かれていた。
「まだ半年前にオープンしたばっかりで、穴場なんだ。他にもプージャン飯店っていう有名な宿があるけど、そこより交通の便もいいし、快適だよ」
プージャン飯店というのは知っていた。上海に滞在するバックパッカーで知らない人はいないのではないかというくらい有名な安宿で、植民地時代の建物をそのまま宿にしているところが売りだった。現に、この後出逢う旅人の中で上海に言った人のほとんどがその宿に泊まっていた。
「ありがとうございます、是非訪ねて行きます」
お礼を言ったところで、船内アナウンスが鳴った。入国に向けて、パスポートの返還と入国カードの記入をするそうだ。
返してもらった青いパスポートを早速開いてみる。以前何度か行ったアメリカの入国スタンプの後に、大きなシールがページ一杯に貼ってあった。
「中華人民共和国釜証(L)」
これがビザというものか。これからこのビザを幾つも集め、スタンプが押され、ページが埋まっていくのを想像するだけで胸が高鳴る。
船は揺れながら黄浦江に入り、上海港に接岸するとひときわ大きく揺れた。僕は15kgのザックを背負い、出口の列に並ぶ。外からは鈍い光が差し込んでいる。歓待はせず、あまり気にも留めずに「なんだ、来たのか」とそ知らぬ顔をしているようだ。
僕は意気揚々と船を降り、深々と大陸の空気を吸い込んだ。
|