人生は一つの大きな旅であり、旅もまた小さな人生の一つだ
幾つもの国を見て、大勢の人々の生活を体験し
数多くの旅人と出会い、別れ、本当の友人に会い、本当の恋もした
深夜特急に憧れた男が遥か西を目指す
涙と笑いのアジア横断記!
中国 上海 1
〜南京路の船乗り〜
荷物チェックもないまま入国管理を終えると、まず考え込んでしまった。いきなり何をどうしたら良いかわからないのだ。「行ったら行ったでなんとかなる」とは思っていたが、実際初めてこんな旅をして知らない街の知らない場所(詳しい地図すら持っていない)に着いたら何をするべきなのか解らないことがこれほどおおごとだとは……
しばらく呆然と立って頭を巡らせていると、乗客の流れが二つに分かれていくのに気付いた。ひとつは現地の人達らしく、家族連れなどでタクシーに乗って走り去っていく。もうひとつは、僕と同じように大きなザックを背負っている人達だった。ならば、その人達についていこう。
すると、旅行者の列は次々と白い小型のバスに乗り込んでいく。僕も後に続いて乗り込んでから、日本人らしき人に尋ねてみた。
「このバスはどこに向かうんですか?」
「あぁこれはね、プージャン飯店に行くんだよ」
旅慣れた感のする(少なくとも僕よりは)男はそう答えた。しかも、このバスは送迎用で料金もかからないという。中国のお金を持っていない僕にはありがたかった。今夜はすでに友人のもとに泊めてもらう約束があったので宿には泊まらないが、少なくとも街の中心部には近づけるのでそこから先はその時考えよう、とそのままバスに揺られることにした。
港を出発するときに、窓の外で中村さんが手を振っていた。
「何かあったら例のホテルに来いよー!」
僕も手を振って返した。
車窓から見える景色は、中国映画の世界そのものだった。日本やアメリカとは、建物も人々の様子も雰囲気もまるで違う。細い路地には人が溢れ、物売りの声や、数々の装飾など、すさまじいほどの熱気と喧騒が伝わってくる。僕は異国の地に足を踏み入れることに胸を躍らせた。
バスが止まったのは、中国に似つかわしくないクラシックな様式の建物の前だった。これが浦江飯店(プージャンファンディエン)か。飯店といっても、レストランのことではない。中国ではホテルのことを「飯店」や「酒店」「賓館」と言うらしかった。バスを降りると、人の流れに任せてそのままフロントロビーへと進む。上海一有名な安宿は、さすがにサービスも充実しているようだった。
次々とチェックインを済ませるなか、僕は一人逆方向に向かい外に出た。曇り空ではあったが、心が浮き立ってくる。ここは中国であり、アジアであり、ユーラシア大陸の東の端だった。ここから陸づたいにずっと西へ向かえば、ヨーロッパの西の果てまで行け、アフリカの南端までも続いているのだ。島国日本で生きてきた僕には、それがにわかには信じがたいような不思議な響きに思えた。
日本の旅行代理店で貰っておいた簡易地図を開くと、あらかじめチェックしてあったプージャン飯店の位置が載っている。まずしなければならないことは、ドル紙幣を中国のお金──人民元に換えることだ。中心部へ行けば銀行くらいあるだろうと、地図に示された上海の繁華街「南京路」を目指して歩き始めた。
日本を出るときに用意したお金は、全部で100万円と少々だった。世界一周を目指すにはいささか不安な額であったが、4年間バイトしてかき集めたのがこれだけだったので仕方が無い。お金が無くなればその時点で帰国しようと思っている。海外のATMで使えるということで「CITIバンク」でカードを作り、そこに100万円入れる。その他に米ドルをキャッシュで400ドル、日本円を2万円、予備としてVISAカードを持ってきていた。本当は、紛失しても再発行してもらえる「トラベラーズチェック」を持っていくのが安全なのだが、出発前の慌しさにすっかり忘れていて手続きが間に合わなかった。
ゴールデンブリッジという名の橋を渡ると、すぐに銀行があった。「中国銀行(Bank of China)」というその銀行に入る。早速ATMでCITIバンクカードを差し込んでみるが、何度やってもエラーが出てしまう。段々と焦りながら、CITIバンクのガイドを読んでみるとこうあった。
「中国は回線状況により正しく動作しないことがあります」
これはどうしたことだろう。
安心と思って用意したカードが、通信がうまく行かないために利用できないのだ。念のために用意しておいたドルキャッシュが早速役に立ってしまった。僕はその場で110$を交換し、約850元を手に入れた。
現地通貨を手にし、不安のなくなった僕はようやく街を歩くことにした。しかし、その前に地図がいる。日本からはガイドブックの類は旅行代理店でもらった20頁ほどの薄いパンフレットと、中国語会話の本しかない。船の中で中村さんが言っていたところによると、南京路というストリートが一番の繁華街らしい。そこにあるツーリストインフォメーションに行けば無料の地図くらい手に入るだろう、そう考えて簡易地図を見ながら歩き始めた。
南京路は歩行者天国になっていて、大勢の人で賑わっていた。広い歩道の両側には、ショップや飲食店、デパートなどが建ち並ぶ。行きかう人も中国人だけでなく、旅行者と思われる人たちも混じっていた。
ツーリストインフォメーションはしばらく歩いているとすぐに見つかった。中に入って訪ねてみるが、どうやら地図のようなものは置いてないらしい。
「地図は本屋に売ってます」
と当たり前のように返された。
仕方なく、近くにあった商店を見てみることにした。しかし、せっかく買い物をするのだから中国語を使ってみたい、そう思って店の前で会話集を開いていると、一人の男が声を掛けてきた。
「何かお困りですか?」
「いや、地図を買おうと思って」
彼は英語が使えるので、こちらも英語で話した。
「地図ね。僕が聞いてあげるよ」
親切な男が店に入っておばさんに何か言うと、おばさんは一枚の地図を持ってきて男に渡した。男は地図を広げて確認していたが、おもむろに地図をおばさんに突き返して僕に言った。
「あの地図はダメだ、バスの行路が書いていない。他の店で買ったほうがいいよ」
右も左もわからない僕は、そうなんですか、と言われるままに男について歩いた。
男は名前を李といい、船の乗務員らしい。海外をあちらこちら停泊していて、横浜にも来た事があるという。歩きながら李さんに中国の話をいろいろと聞いた。
「中国の食べ物を食べたかい?」
不意に李さんが訪ねてきた。
「揚げパンみたいなのを食べたけど、ちょっと油っこかった」
そう答えると、李さんは笑って言った。
「そうだろう、中国人はあんまり油を取り替えないから古い油を使ってるんだよ。でも、中国人には太った人が少ないだろう。何故かわかるかい?」
そう言われてみると、確かにあたりを歩いている中国人はみんなスリムだ。日本でよくデフォルメされている中国人は何故か太った人が多いのに、どうしてだろう。
「それはね、お茶を沢山飲むからなんだよ」
李さんは不思議そうにしている僕に答えを言った。
「中国人はみんなお茶を飲む。外に出るときも必ず水筒を持ち歩いていて、いつでも飲めるようにしてるんだ。お茶は油分を分解するから身体にいいんだよ」
なるほど。ほとんどの人が円筒形のものを持っているが、あれは水筒だったのか。
「君も一年世界を回るなら、健康に気をつけなきゃダメだよ。お茶を飲みなさい」
「じゃ、後でお茶屋さんを見てみます」
「いや、今すぐ買いなさい」
疑問に思う間もなく、李さんは近くにあったお茶屋さんに入っていってしまった。仕方なく僕も後に続く。
彼は店にある茶葉を色々と物色した後、ひとつを指差して言った。
「これが一番いいお茶だ」
見ると、「龍井茶」と書いてあり、値段も他のお茶の100倍くらいした。
「500グラムもあれば、一年もつよ」
50グラムで80元なので、500グラムで800元もする。こんなにも遣ってしまったら今さっき銀行で換金したお金が全部無くなってしまう。
「何もこんなに高いお茶はいらないよ」
先が長いので無駄遣いしたくないと言うと、彼は必死にこのお茶の良さについて語りだした。
「一年で800元なんだから、一日に換算したら2元くらいだろう、それで健康を維持できるなら安いもんだよ」
「しかし、いくらなんでも高すぎるよ」
「安いお茶を飲んだって、栄養はあんまりないんだ、これが一番いいんだよ」
あまりに熱心に勧めるので、仕方なく200元分くらい買うことにした。まぁ喉が渇いてジュースを買うとなるともっとずっと高いので、これはこれでいいか。
一時間ほど李さんと歩いて無事地図を購入することができた。最後に長距離バス乗り場まで案内してもらう。
「ここでお別れだね」
バス乗り場に着くと李さんが突然言った。
「ところで日本のお金を持っていないか?」
おやおや? と不振に思った。まさか最初からこれが目当てで親切をしてくれたのではないか?
しかし、一時間歩き詰めに歩いたのは相当苦労したはずだ。そこまでしたのはやっぱり純粋に親切じゃないのか?
どちらか迷ったが、どのみち節約を決めた僕には人にあげられるお金なんて持っていない。
それでも無下に断るのも悪い気がして、財布に入っていた小銭150円を渡した。
李さんはちょっと驚いたようだが、笑顔で言った。
「ありがとう、今度日本に寄ったらこれでコーヒーでも飲むよ」
その言葉を最後に、李さんは去っていった。
果たして彼は高いお茶を買わせる為の詐欺師だったのだろうか。
今でもよく分からないが、確かにそういう手口は他の国や街でも沢山聞いた。
しかし、彼と話した会話は面白かったし、お茶はその後も結構役立ってくれた(中国を出るまでの間だったが)。
結局、僕はただの親切な男と考えることにした。ただし今回は金額がそれほど大きくなかったし、向こうもあまり強引にな態度は取らなかったが、これからはもう少し気をつけようと思う。
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