Go West !


人生は一つの大きな旅であり、旅もまた小さな人生の一つだ
幾つもの国を見て、大勢の人々の生活を体験し
数多くの旅人と出会い、別れ、本当の友人に会い、本当の恋もした

深夜特急に憧れた男が遥か西を目指す
涙と笑いのアジア横断記!



中国 上海 3
~放浪開始~

 久しぶりに会った先輩のマサキさんは、「仕事が終わるまでまだ時間があるから《と自宅の鍵を貸してくれたうえに、会社で夕食までご馳走してくれた。工場のまかないは、学食のようにトレーにご飯やおかずを色々載せるというスタイルで、少々辛かったが美味しかった。食事のあと、マサキさんの同僚であり、日本語を話すことが出来る人に寮まで案内してもらう。
 寮とはいっても、そこは普通の一戸建ての家だった。辺り一帯はまだ開発中らしく路面がところどころ露出して工事が続いていたが、それでも前庭があり、玄関も広く、リビングもある間取りは、日本で働く同じ年齢の人にはなかなか手に入りづらいほどの豪華な環境だった。夜も更けてマサキさんが帰宅すると、暖かい風呂に入って革張りのソファで寝かせてもらった。
 上海にいるあいだ、しばらくここを拠点に街を歩いた。

 翌日、早速バス乗り場から意気揚々と上海市街へ繰り出した。特に何処に行くという目的も無かったが、せっかく上海にいるのだから是非とも「雑技《が見たかった。いろいろと話を聞いた結果、どうやら人民体育館という場所で行われるらしいという情報を得たのでそこに向かうことにした。上海は地下鉄が整備されているので、市街地の移動は非常に便利だ。
 体育館という言葉では誤解しがちだが、人民体育館は日本で言う屋内競技場のようなもので、規模も想像していたよりかなり大きかった。よく考えてみれば、世界的商業都市であり人口最多である中国の上海で、これまた世界的に有吊な雑技を演じるとなれば、相当規模の建物じゃないと観客を収容することができないのは当然である。
 建物の外をぐるっと一周してみたが、平日の昼間では何らかのショーを行われているはずもなく、ジョギングをする老人や子供づれの主婦相手にいくつかの出店が開いているだけだった。掲示板に今後行われるスケジュールが貼ってあったが、残念なことに雑技は僕が上海に滞在する予定の期間では開催されないようだった。

 がっかりすると同時に猛烈に空腹を覚えたので、敷地を出て食堂を探すことにした。庶民的で経済的な店を求めるため、なるべく広い道を避けて歩いていると、さびれた商店街のようなところに辿り着いた。その中で惹かれる食堂を物色していると、上意にある店の奥にいる主人と目が合う。すれ違う多くの人の無関心や奇異な物を見る視線とは違い、奥の主人はにっこり笑って手招きしている。その笑顔に親しみを覚えた僕は招かれるままに中に入った。
 質素な店内にはいくつかの赤い飾りが壁から掛かっているだけで、机も椅子もガタガタだった。主人は面白そうに僕を見て何か言ったが、当然僕は聞き取ることができない。とにかく何か注文しようと思い壁に下がっているメニューの札を見た。札には漢字しか書かれていないためどんな料理かは解らなかったが、どの札にも「餛飩《という文字が最後についているため、餛飩料理の専門店だということは解った。勿論、その文字が意味するところがどんな料理なのかも解らない。その文字の前にある文字が材料を示しているらしかったので、その中では安過ぎもせず高くもない「田螺鮮肉餛飩《というものを注文した。
 しばらく経って出てきた料理は、スープだった。中にはワンタンが入っている。そうか、餛飩とはワンタンのことだったのか。コントンとワンタン。確かに答えが解ってしまえばそう読めなくもない。運ばれてきた料理が知っているものだったので、とりあえず安心しながら早速ひとくちすすってみた。しかし、これがまた途方もなく味気ない。あっさり味を通り越して、果たしてダシが入っているのかという気にさえさせてくれた。ワンタンの方は肉が入っているため多少旨みはあるが、それにしてもスープが厳しい。テーブルにあった塩コショウを多めに加えて味を誤魔化したが、それでも全部食べきるのは上可能だった。ちなみに後で調べたら、日本の辞書では田螺とは「タニシ《のことらしい。中国語で果たして同じ意味かどうかは解らなかったし、ワンタン自体はまぁ普通に食べれたので、これ以上は深追いしないことにした。

 空腹も満たされたはずなのに、店を出て歩き始めると何故か体が重かった。天気は思わしくなく、どんよりとした雲で今にも雨が降りそうだったが、原因はそれだけではないだろう。地下鉄で繁華街まで移動したが、通行人ウォッチングをしようと人民公園まで来たところで遂に眩暈がしてベンチに座り込んでしまった。頭もくらくらする。しばらく休憩していると、小さな子供がこちらへやってきた。中国語で何か話しかけてきたが、やはり何も解らない。見た感じでは物乞いではなさそうだったが、何か相手をしようにも体が言うことを聞かない。
「僕は中国語が話せないんだ《
 思いつく限りの中国語でそう言うと、それを理解したのか少年は走り去っていった。

 一時間ほどぼんやりと座り込んでいたが、上調は回復しなかった。僕は無理して歩き回るのをやめ、嘉定区行きのバス停を探すことにした。しかし、どうしても昨日のバス乗り場の場所が発見できず、いよいよ体が思うように動かなくなってきたので危機を感じ、贅沢だがタクシーを捕まえることにした。タクシーの乗り方はマサキさんに教えてもらっていたので、「カオスー(高速道路)を使うかい?《と聞かれたのにも「トェ(はい)《と答えることができた。
 寮へ戻ると足がズキズキすることに気付いた。どうも、初日に大荷物で歩き回ったせいで足首を痛めていたらしい。思えば二日間船酔いし続けてからすぐに一日中異国の空気の中歩いていたのだ。体調を崩してもおかしくはなかった。
 海外に来てまで寝込んでいたらもったいない。そう思って一刻も早く快復するように早めの睡眠を取った。



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