2000年2月28日。
無謀にも名古屋・東京間を原付で駆け抜けた男がいた。
テントと地図を背中に積み、冬真っ只中の国道1号線を愛車YB−1が爆走する!
4th run 3月1日(水)後編 御殿場〜東京 165.3km
温泉に入って身も心もリフレッシュしたところで、再び愛車YB−1にまたがった。このまま国道138号線に乗っていけば、箱根山の裏側で再びあの国道1号線に合流するのだ。少しの寄り道だったが、本来のコクイチ爆走に戻ることができる。
しかし、恐らくこの行程で最大の難関である箱根の坂道が、目の前に立ちはだかっていた。
乙女峠のトンネルを抜けると、ひたすらグネグネと曲がりくねった道が続く。もともと単なる原付のうえ、すでに走行距離が1万3千kmを超えている我がYB−1の性能に加え、一週間分の荷物でリュックを二つも積んでいるのだ。めちゃくちゃに急勾配のこの坂では、ひどいときにはアクセルをフルスロットルまで回しても時速20kmがせいぜいというところもあった。それも対向車などでアクセルを緩めようものなら、たちまちエンストしてしまう。ただでさえ道が狭いので、追い越しやすれ違いが思うように行かず、後ろの車には散々迷惑をかけたことだろう。
しかも下りは下りで、あまりにも急カーブな上に荷物のお陰で車体をあまり倒せないため、結局20km以上のスピードを出してしまうと曲がりきれない。結局箱根の道は上りも下りも超低速で進むしかなかった……
2時間ほど走りようやく箱根の坂を越え、小田原を過ぎると、ついに海岸に到達した! 標識を見ると道の名前は「湘南バイパス」! 一直線に続くひたすら長い道路を爆走するオレの気分はまさに湘南ライダーだ!
……スピードは50km/hしか出てないけど。
後続車にバンバン追い抜かれながらも、ひとり湘南爆走族は湘南バイパスを駆け抜けた。本来なら国道1号は途中で東京にダイレクトに向かうべく東北へそれていくのだが、かまわず海岸沿いを猛進。サザンで有名な茅ヶ崎、江ノ島を抜けて東へ東へと急いだ。
実は神奈川ではひとつの野望があった。それは「横浜ベイブリッジ」を走ることだ。海岸線が房総半島を南に逸れていく前に、今度は半島の反対側の付け根へと向けて舵を取った。
しかし、横浜市に入ったところから、持ち前の方向音痴をいかんなく発揮して迷いまくってしまった。とにかく地図でベイブリッジに向かっていたはずなのだが、なぜか気がつくと多摩川を渡り「東京都大田区」の看板が。ついに東京まできたぞ! という興奮もあったが「何故!?」という感覚のほうがどちらかというと強かった……
その手前の北寺尾というところで遅め(すでに15時)の昼食をとった。そこでちょっと贅沢目な(前日の夕食があまりにもわびしかったため)ハンバーグランチなどを食べながら、サイキックに今日中に到着することをメールする。彼の返事は「22時過ぎに帰る」とのことだった。
そう、この時点では……
話が少々前後したが、とにかく東京に入って最初に東京タワーが視界に入ったときは、そりゃぁ感動だったね。これで少なくとも目的地に行くだけは行くことができたのだ。
とりあえず国道1号を進んでいったら皇居の桜田門にぶち当たった。何年か前にこの辺りを彷徨ったのを思い出し、バイクを止めてぶらぶらと散歩する。
これがまたいけなかった。
ひとしきり懐かしさと感動を噛み締めながらバイクに乗り、さてどうしようかと地図を見ようとすると……
無い。
地図が無い。
ポケットに入れたはずなのにない。
まずどれだけ心中叫んだかは察しがつくだろうか。サイキック宅は住所は知っていたが、そもそも板橋区やらなにやらが東京都のどの辺に位置するかも知らないのだ。
じっとしてても地図が風に舞って戻ってくるはずがないので、ひとまず近くの東京駅にある交番へと足を運んだ。この交番、実は数年前(深夜鈍行の時)にも地図を貰いに入ったことがあるのだ。交番にいた親切な警官があの時の人だったかは分からないが、渡された地図は当時と全く同じものだった。しかし悲しいかな、地図は板橋区はおろか、今しがたいた桜田門すらカバーされていない。
しかたなく市販の地図を購入することになったのだが、当時古本屋で働いていたために、本を定価で買う気にはとてもなれない。少しでも出費を抑えるために、かの有名な神田古書通りへ行ってみることにした。
だが想像と違い、ここに売られているものは「古本」というよりまさに「古書」。「地図がほしい」といえば「どこの国のいつの時代?」とでも聞かれそうだ。結局740円の大枚はたいて新刊本を買わざるを得なかった……
なんのかんので時計を見れば、まだ18時。地図のお陰でサイキック宅にはたどり着いたものの、まだ4時間も暇を潰さなければならない。バイクを止める場所もないし、大荷物を背負っているので遠くに行くこともできない。近くをぶらついていると、マンガ喫茶なるものを見つけたのでしばらく時間を潰すことにした。フリードリンクなので当然のごとく飲み物で元を取る勢いでがぶ飲みしながら、それでも1時間半程度しか予算の都合上滞在することができなかった。時計を見れば、20時。ま、2時間くらいならなんとかなるさ、と近くのコンビニでポテトチップスを購入し、サイキック宅前で腰を下ろして待つことにした。
しかし遅い。30分くらいの遅れは今までからして覚悟していたが、1時間も遅れてもまだ帰ってこない。友達にメールを打ったり電話したりとなんとか時間を消費していったけど、そろそろ寒さと退屈も限界に達してきた。そこに届いたサイキックからの一通のメール!
『かえれんかも』
「!!」さすがにこれは効いたね。『早くきたオレも悪かったけど、少しは考えてくれ!』と送り返すが、どうも届いた様子がない。さらに何度もメール&電話を送るが全く通じない。身体は心底冷え切っていたが、どうやら頭のほうだけはぐつぐつと煮え立ってくれた。
思えばKYOS創立以来いろいろあった。口論も確かにあったが、これだけ頭に来たのは初めてだったね。オレは4時間も座り続けたアパートの廊下から立ち上がって、バイクの元に行く。荷物の詰まったリュックをYB−1の荷台に載せ、手袋をしてバイクにまたがる。もう一度、さっきまでいた扉の前に目をやり(もう二度と見ることもないな)と心でつぶやいて、ゆっくりとヘルメットを被った。
……とちょうどその時。胸ポケットに入れた携帯電話がけたたましく鳴った! 再びメットを外して電話を取ると、なんとサイキックではないか!
どうやら帰宅のメドがたったらしく、1時半くらいには帰れるそうだ。最初は「もう帰るからいい」と言おうと思ったが、どうやら向こうも連絡が取るに取れない状況で大変だったらしく、ひたすら謝ってこられたのでまぁ仕方ないと思うことにした。こうしていつも泣きを見るんだよなぁ……
実際、本当に置手紙でもして旅館に泊まり、翌日東京を発つくらいの覚悟はあった。それくらい精神的にも追い詰められていたのは確かだ。あそこで電話がなければ、あの時点でKYOSは解散か、少なくともオレはKYOSから外れていただろう。いろいろ辛い思いもしてきたが、運だけはまだ結構残っているらしい。
とにかく、さすがにあと1時間もまたあの場所に戻るのも嫌だったので、近くの公園のベンチで待つことにした。しかし、その公園はどうも駐車場の抜け道となっているらしく、夜中だというのに人通りは多い。10分に一人程度は来る。もし真夜中の公園のベンチに、ボロボロの荷物を積んだバイクと、ボロボロでやつれた顔の男が寝転がっていたらどう思うだろう。オレの顔を見て一目散に、まるで逃げるように走り過ぎていった女の人のリアクションは、どんなに心が荒んでいても許してあげるべきだろう。ちょっと悲しかったけど。
結局。
長かったような原付コクイチ爆走記の前半部分は、1時40分になってようやく現れたサイキックの「わりぃ、ほんっとゴメン!」という、彼には珍しい本気の謝罪の気持ちによって、多少は救われた気分で終えることができたのであった。
実際は眠気と疲労と空腹で(なんかどーでもいーや)って感じだったんだけどね。
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